政治・社会

普天間飛行場移設問題を考える。なぜ翁長前知事は辺野古移設反対に踏み切ったか

投稿日:2019年6月21日 更新日:

米軍基地の普天間基地問題は、沖縄県の問題ではなく、日本全体の問題です。本土の人が沖縄県の基地問題に目を向けることは良いことだと思ってこのブログを書くことにしました。

日本の安全保障は日米安全保障条約、自衛隊、米軍の国内の基地などの抑止力に依存しており、普天間基地問題を沖縄県内にあるべきものとして県内の移設の問題として捉える認識は正しくありません。中国の脅威や朝鮮半島の有事への対応という点について、地理的に、機動力がある米国の海兵隊が沖縄にいることが望ましいという意見があり、その通りからも知れませんが、本土に住む住民は、沖縄県民に甘えすぎです。 沖縄における普天間基地の辺野古移設反対を掲げて2014年の知事選に勝利をして流れをつくった翁長元知事の1999年の県議時代と2014年の知事就任時の発言を見ていきます。 そして、なぜ翁長知事は2014年に辺野古移設反対に踏み切ったか考えてみます。なるべく引用を残すようにして正確な事実に基づいて記述していますが、抜けている点や誤認識している点があればご指摘ください。

沖縄県議会議員時代の翁長雄志氏の普天間基地についての見解

さて、2014年12月沖縄県議会での議事録での翁長前知事の発言抜粋です。リンクの「本会議の閲覧と検索」から、誰でも読むことが出来ます。翁長前知事の就任当初の県議会での発言です。『普天間の返還ということについて、沖縄側に責任を負わす、あるいは持つべきだというこの発想が、戦後69年間一度たりとも基地を提供したことないのに、その中の基地の一つである普天間基地が世界一危険な基地ということで、さあこれどうしようと、大変だということになっているわけですよね。大変であるというときにそれをおまえ方沖縄側にあるんだから、沖縄のどこかに移しなさいよというこの発想が私には信じられないと言っているんですよ。僕らはあれはみんな銃剣とブルドーザーで県民の了解なしで69年間とられているわけでしょう。そのとられているものをどかすというときに改めて移設地を沖縄に置いて、そして本土の方々は無関心、無理解の中で日米安保体制というものを維持していくというのはこれはおかしくありませんかと。沖縄側からもっと大きな声を出す必要がありませんかと。これがオール沖縄の意味合いなんです』

日米安保のもと戦後の平和な生活を享受している私たち本土の日本人にとって重い言葉です。翁長前知事が県議時代は辺野古移転を推進していたのに、何故反対に転じたのかとよく言われますが、県議時代の発言も正確に見る必要があります。1999年の10月沖縄県議会における議事録の当時の翁長県議の発言の抜粋です。当時は翁長県議は、稲嶺元知事をサポートする与党の立場でした。『移設先の基地の形態ということでありますけれども、稲嶺知事は昨年の選挙で『「海上ヘリ基地案(注記:辺野古沖の基地のこと)」については責任をもって政府に見直しを求める。そのかわり県民の財産となる“新空港”を陸上に建設させ、一定期間に限定して軍民共用とし、当該地域には臨空型の産業振興や特段の配慮をした振興開発をセットする。」としておりますので、(一部省略)この公約にのっとって決定をする。』
『1996年の決議案と比べてどうかということであります。私どもは、この全会一致を決議したときに表題にありますように基地機能強化につながらないと。要するに基地機能強化につながる県内移設に反対するということは、基地機能強化につながらない形での基地の整理縮小を求めていきたいということを私どもはこの決議案に思いを託したわけでございます。』

1999年県議当時から、決して無条件で普天間基地への受け入れを容認していただけではありませんでした。当時の稲嶺知事の掲げた15年の期限と、軍民共用化、産業振興(補助金)の3つ条件とともに辺野古への移転を推進していたことがわかります。その主張が、15年後の2014年の知事就任時は普天間基地の危険除去は一刻も早く行わないといけないものの、沖縄県内への移設ありきは勘弁してくださいという主張に変ったというのが正しいです。では時系列に見ていきます。

沖縄普天間基地移転問題の歴史年表

出来事   内閣 沖縄県 名護市
1994

大田知事(当時)訪米。那覇港湾施設の全面返還などの要請

 
1995 在沖米国海兵隊3名による小6少女暴行事件  
  大田知事駐留軍用地特措法 代理署名拒否  
  沖縄県民総決起大会によるデモ  
  SACOを日米で設定  
1996 橋本龍太郎内閣  
1996 沖縄県で直接請求による日米地位協定の見直しと基地の整理縮小を問う県民投票の実施(投票率59.53%、賛成89.09%、反対8.54%)  
 

12月SACO最終合意。日米安全保障協議委員会で承認。
11施設の返還で合意。但し、普天間、那覇港湾施設など県内移設が条件、普天間については、長さ1300mの滑走路及び司令部や整備場等の支援施設を備えた海上施設を沖縄本島の東海岸に建設、12基の空輸機の岩国飛行場への移動、嘉手納飛行場に追加施設を整備。

 
1997

直接請求による名護市における米軍のヘリポート基地建設の是非を問う市民投票の実施、反対、条件付き反対がが53.84%。しかし住民投票の3日後、比嘉鉄也名護市長がヘリポート受け入れ表明して市長職を辞職

 
1998 2月、大田知事(当時)名護市への海上ヘリポート受入拒否声明ここからあるダウンロード    
  名護市市長選、比嘉元市長の後継者の岸本市長が勝利  
  小渕恵三内閣  
  普天間基地の代替施設の軍民共用化と米軍の使用期限を15年に限ることを公約に掲げた保守系稲嶺恵一が、沖縄県知事選で現職大田知事を破って当選  
1999 稲嶺知事、岸本市長代替施設の条件付きの受入表明  
 

「普天間飛行場の移設に係る政府方針」についての発表。15年の使用期限についてはあいまいな表現で記述

 
  12月に概ね10年間で1,000億円の特別の予算措置(北部振興事業)の予算確保の見通しであることを発表、2000年から10年か1年約100億円ずつ予算化される。  
2000 森喜朗内閣  
  8月、日本政府、沖縄県、宜野湾市、名護市による代替施設協議会が開始。2002年7月まで9回の会合が行われる。9回目の会合で、海上ヘリポート案(辺野古中心から2.2㎞の沖合、滑走路2000m、約184ha)の案が公表  
2001 小泉純一郎内閣  
2002 沖縄振興特別措置法が10年間の時限立法として施行  
2003 ラムズフェルド国務長官(当時)が沖縄訪問、稲嶺知事と会談。在沖縄米軍基地の整理・縮小、日米地位協定の見直しを求める稲嶺知事に対して国務長官は、口が重かった。辺野古の15年期限問題、軍民共用についてはの議論はされなかった。  
2004 沖縄国際大学構内に普天間飛行場を離陸した米海兵隊のC大型ヘリが墜落、炎上  

 

辺野古代替施設の環境影響評価方法書作成開始  
2005

日米安全保障協議委員会(2+2)にて、「キャンプ・シュワブの南側海岸線に沿った水域へと辺野古崎を横切ることになる。北東から南西の方向に配置される同施設の下方部分は、滑走路及びオーバーランを含み、護岸を除いた合計の長さが1800メートル」の沿岸案とすることで合意

 
2006 沿岸案に対して、岸本市長は受け入れ反対表明  
  岸本市長の後継の保守系島袋市長が名護市長  
2006 政府と島袋市長との間で、普天間飛行場代替施設の建設に係る基本合意として、沿岸に滑走路をV字2本とする案で合意。但し、沖縄県は合意に参加していない。  
2006 政府と稲嶺知事との間で、1999年12月28日の普天間飛行場の移設に係る政府方針に基づいて、、在沖米軍再編に係る基本確認書にて合意、すすめることについて合意(沿岸埋め立てV字2本とする案に合意したわけではない)  

太田昌秀元沖縄県知事による代理署名拒否と橋本龍太郎元総理大臣による米国との交渉

辺野古移転問題は米国、及び日本政府への 大田昌秀知事の要請から始まります。ソ連が崩壊して東西冷戦が終わり、平和の恩恵を沖縄にという大田知事のアクションから動き始めました。1995年には沖縄県の米軍基地の使用許可について地権者に替わって 駐留軍用地特措法の代理署名について大田知事が拒否します。これを受けて1996年に Special Action Committee on facilities and areas in Okinawa 「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会 」 (以下SACO) がスタートします 。目的は沖縄基地負担の軽減。当時の橋本龍太郎総理大臣が、1997年の基本合意での11の施設の全面または一部の基地の返還についてSACO最終報告として米国と合意しました。最大の目玉の普天間基地についての移設は、沖縄県の東海岸の海上施設とされていました。当時から辺野古の沖が有力視されていたようです。なお、SACO最終報告では、多くの施設が県内移設が前提となっており、大田元知事は了承できるもではなかったと振り返っています。

この時、名護市では地方自治法の直接請求による住民投票条例を求める動きが起こりました。1997年12月に、「名護市における米軍のヘリポート基地建設の是非を問う住民投票」が実施されて名護市民の意思はあきらかになっています。このときの市民投票の結果は投票率82.45%と非常に高く、反対と、環境対策や経済効果が期待できないので反対という条件付き反対の合計で53.84%とで過半数を占めるという結果でした。しかし経済効果や環境対策が期待できるから賛成という条件付き賛成も37.87%の市民の声も一定数ありました。ところが当時の名護市の比嘉市長は、経済投資があることなどを条件に住民投票の3日後に辺野古への移転を表明して市長を辞任します。この時、北部振興事業について約束があったと言われており、実際2000年から1年で約100億円、10年で約1,000億円の予算がつくことになります。

稲嶺恵一氏による利用期限15年、軍民共用化を条件とした辺野古沖海上案推進

その後1998年の知事選で保守系の稲嶺恵一元知事の時代に辺野古への移転が動き始めます。稲嶺元知事は、基地の利用期限を15年とすること、軍民共用空港とする、環境への配慮、経済振興策などを条件に辺野古への移設を受け入れることを公約にして3期目を目指す当時の現職大田知事を破って当選しました。すぐに対策室を設置して検討が始まり1999年には、日本政府は、「普天間飛行場の移設に係る政府方針」を発表します。 「軍民共用空港を念頭に整備を図ること」ととはっきり書かれております。しかし、15年の使用期限については、「国際情勢もあり厳しい問題があるとの認識であるが、知事及び名護市長からの要請がなされたことを重く受け止め、米国政府との話し合いで取り上げるとともに、在沖米軍の兵力構成等の軍事態勢につき協議 」とあいまいな記述となっています。その後、政府方針に基づいて、2000年8月から2002年7月までは日本政府、沖縄県、宜野湾市、名護市による代替施設協議会が開催されます。政府、沖縄県、名護市の代替施設は海上案で9回目の協議で辺野古沖の海上案が発表されます。

具体的な建設場所は、辺野古中心から基地は約2.2㎞離れており、平島からの距離が約600mとされており、滑走路長さは、2,000m、敷地は2,500m x 730m 、184haの海上基地としての案となりました。SACO報告書の通りの沖縄県の東海岸の海上案です。陸から分離されていることが、2019年現在の案との大きな違いです。近い海上をうめたてる海上案とすることは、 騒音への配慮 、工事費を抑制すること、滑走路の延長線上に住宅がないことなどが検討された結果の案と説明されています。15年の期限については記述はありませんが、軍民共用化については、第8回の協議会で、前提として確認されています。

辺野古沖案から辺野古埋め立て案へ

ところが、その後、2005年の10月29日、日米安全保障協議委員会(2+2)では、海上案ではなく、現在の案に近い辺野古と陸続きにつながる案となっています。

2005年10月29日、日米安全保障協議委員会(2+2) で公開された案

日米安全保障協議委員会(2+2)の説明では、『 海の深い部分にある珊瑚礁上の軍民共用施設に普天間飛行場を移設するという、1996年の沖縄に関する特別行動委員会(SACO)の計画に多くの問題のために、普天間飛行場の移設が大幅に遅延していることを認識し、運用上の能力を維持しつつ、普天間飛行場の返還を加速できるような、沖縄県内での移設のあり得べき他の多くの選択肢を検討した。双方は、この作業において、以下を含む複数の要素を考慮した。 』として、大浦湾の沿岸をL字型に埋め立てる沿岸案に変っています。この時の総理大臣は、小泉純一郎氏です。橋本龍太郎氏と異なりトップレベルでの交渉をせずに、現場レベルの交渉に委ねていたのでしょう。

滑走路及びオーバーランを含み長さが1800メートルと民間で利用するには短くなっています。 使用期限15年については一切記述はなく、滑走路も短くなり軍民共用空港も遠のきました。辺野古からの移設を最優先しているのがわかます。2004年に起きた沖縄国際大学へのヘリコプター転落事故の影響が大きかったと思われます。この沿岸案は、沖縄県や名護市とは協議なしに日米協議で決められたこともあり、代替案協議会で2年かけて内容を詰めてきた海上案が無視されているので当然、稲嶺知事(当時)や岸本市長(当時)は面白くなかったはずです。

岸本市長(当時)は、反対声明を出して任期を終えます。反対声明には2年間の協議が何だったのか?口惜しさがにじみ出ています。ところがその後、岸本市長の後継者の島袋市長(当時)が日本政府との間で沿岸案V字滑走路案について普天間代替施設の建設に係る基本合意書として2006年4月7日に合意します。稲嶺知事は2006年5月11日に 在日米軍再編に係る基本確認書合意しますが、内容を見る限り辺野古沿岸部V字滑走路案に合意したわけではありません。むしろ1998年12月28日の普天間飛行場の移設に係る政府方針を踏まえと書かれており、15年期限や軍民共用空港を諦めたわけではないという合意です。やはり2年間も詰めてきた代替施設協議会の案と異なる計画になったことへの不満が表れていると考えた方が正しいでしょう。

辺野古移転への反対は、今に始まったことではなく、保守系の稲嶺知事(当時)も、名護市反対の民意に対して、日本政府とぎりぎりの交渉をして辺野古への移設を受け入れようとしました。15年期限と、軍民共用化の両方を条件に出したのも15年期限は無理筋だとわかっていたものの、落としどころとして、軍民共用化は確保したいという思いがあったかもしれません。民も使える航空であれば沖縄県民も使用できる空港として、理解が得られる、やがては沖縄県への返還につながると考えたのではないでしょうか。しかし、海上案も日米安全保障協議委員会(2+2)で、あっさり沿岸案となり却下、滑走路も民間で利用するには短くなったV字型の2本になり軍民共用化もうやむにとなってしまいました。沖縄県民が得られた恩恵は、 沖縄振興特別措置法 の継続と北部振興事業などの補助金だけです。どこまで沖縄県の立場は低いのかという複雑な思いで、沖縄県民は経緯を見守っていたのではないでしょうか?

その後の経緯

その後の経緯は、仲井眞元知事、鳩山元総理大臣の時代以降の混乱は別の機会に記述します。ここまでの振り返りで、翁長前知事が、県議時代の1999年には、普天間基地の辺野古移設について苦渋の選択として条件付きで推進していたが、2014年県知事になって普天間基地の辺野古移設には反対に転じた理由が私には理解できました。日米政府が沖縄県民の意向をくみ取った代替施設協議会の海上案を無視して辺野古沿岸V字滑走路案を米国との間で検討してすすめてしまったことが最大の原因と考えます。仮に、2002年の代替施設協議会の海上案、滑走路も2,000mで計画されて、軍民共用化も意識して進められていたら、少なくても稲嶺知事は了承して、後継者の仲井眞知事も受け入れて、うまくすすめられた可能性があったのではないでしょうか。環境問題などで反対する人はもちろんいたとは思いますが、いまのような「オール沖縄」としての反対運動にまではならなかったのではないかと考えます。交渉ごとは一方が不利にならないように丁寧に合意をとって進めることが大事であることがよく分かる例だと思いました。

最近の2019年5月のニュースで、 在沖縄米軍トップだったニコルソン前四軍調整官が在任中、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先となる名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブ沿岸に建設中の滑走路について、将来的に軍民共用とすることを提案していたが日本政府が時期尚早としていたことが明らかになりました。日本より民意に敏感なアメリカ人トップが沖縄県民に気を遣って情報をリークをしたのかもしれません。沖縄県民に辺野古反対の火がついてしまった今では遅いかもしれませんが、稲嶺元知事時代の辺野古移設への交渉経緯を踏まえての配慮かもしれません。日本政府がなぜ時期尚早と対応したかは不明です。もしこのまま辺野古に米軍基地が出来るのであれば、沖縄県民も使える、将来の返還の可能性も残す軍民共用化を検討することはベターだと私は思います。

まとめ

ここまでで、普天間飛行場移設問題の前半の2006年までを振り返りました。まとめると以下となります。

  • SACO合意が沖縄の基地負担軽減が目的であったにも関わらず、普天間飛行場や那覇軍港などが大きな施設が沖縄内移設が前提となっていることで沖縄県からすれば期待外れな内容であった。
  • SACO合意後、保守派の稲嶺元知事は、辺野古移転について、15年の期限付きとすること、軍民共用化とすることなどを条件にした合意で1998年の知事選に勝利。日本政府と交渉して1999年12月に政府の方針が 「普天間飛行場の移設に係る政府方針」 として発表された。軍民共用化は前提とされたが、15年期限についてはあいまいな表現であった。
  • 2002年に日本政府、沖縄県、宜野湾市、名護市の代替施設協議会で検討された普天間基地の辺野古への移転案は、辺野古沖の海上案で軍民共用化を意識した計画だった。
  • 2005年10月29日、日米安全保障協議委員会(2+2)では、代替施設協議会の海上案ではなくなり、軍民共用化も後退した辺野古沿岸部を埋め立て案(現状案)となる。2006年5月に、島袋名護市長(当時)は合意したものの、稲嶺知事(当時)は了承していなかった。

以上(2019年6月24日)

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